濃縮シンポジウムT 「自立支援って?」
福祉と医療・現場と政策の新たな「えにし」を結ぶつどいより
(2006.5.13(土)東京・内幸町のプレスセンターで)

―夢がもっともっと広がる、そんな一日に―

山田:  総合司会を務めさせて頂きます、山田晴子と申します。私事になりますが、息子がダウン症で、アキラといいますが、千葉県地域福祉支援計画を作る委員会の当事者委員になりました。知的障害のある本人が委員になるなんてまるで夢のようです。これも新たなえにしのおかげだと思っております。今日は皆様とご一緒に、新たなえにしを結ぶことで、私達の夢がもっともっと広がるように、そんな一日になることを願いつつ、司会を務めさせて頂きます。どうぞよろしくお願い致します。

会場:(拍手)

山田:  お手元にピンクの封筒、大変分厚いものでございますが、その中にブルーのプログラムと、もう一つ、ピンクの「えにし結び名簿」。このブルーのプログラムに沿って進めさせて頂きますが、1枚開けて頂きますと、ページの上と下に縁飾りがございます。これは、夢・風・10億円基金の代表世話人で、デザイナーの牧口一二さんが、えにしの会のためにデザインして下さったものでございます。
 「縁」という字の間に、糸偏の漢字が並んでおります。紡ぐ、絆、結ぶ、編む、繋ぐ……お楽しみ下さいませ。皆様のお胸に付いております名札カードにも同じデザインがしてございます。ちょっと一工夫、楽しんで頂ければと存じます。

―その場に参加するすべての人のために、情報保障の手話通訳、要約筆記、磁気ループ―
「えにし」の会の伝統で、スクリーンにはパワーポイント映像と並んで、パソコン要約筆記、そして左端は手話通訳中の情報保障コーディネーター宮下あけみさん

山田:裏表紙に情報保障のご説明が書いてございます。最初のところだけ読ませて頂きます。
 「情報保障はその場に参加するすべての人が同じ時間に分かり合い、参加し合い、意見を交換し合うために必要な体制です」。ということで、このえにしの会では第1回から様々な方法を用意しております。本日も補聴器をお使いの方はどうぞお申し出て頂ければ、磁気ループに囲まれた席にご案内できます。舞台の上手と申しますか、そちらの方にご用意されております。袋の中にですね、磁気誘導システムのパンフレットも入れてございます。こちらも何かの折にご活用頂ければと思います。
 それから同じように、日本聴覚障害者コンピュータ協会の手話研究部によりますコンピュータ用語の手話というものも入っております。今後、ご参考になるかと思いますのでよろしくお願い致します。

―濃縮シンポジウム「自立支援って?」の、はじまリ、はじまリp(^-^)q―

 では、最初のプログラム、濃縮シンポジウムのTに入っていきたいと思います。
 ピンクの封筒の中にコーディネーター、東洋大学ライフデザイン学部教授の北野誠一様の資料「障害者自立支援法をどう捉えるのか」がございます。パネリストのお一人、厚生労働省社会・援護局長の中村秀一様の「最近の社会福祉の動向について」という資料もございます。この2つをお手にとって、見て頂きながら、まさに濃密な、濃縮シンポジウム、「自立支援って?」を始めていただこうとおもいます。この自立支援という言葉に、現場はあっちへいったり、こっちへいったりしている、本当に課題山積みの自立支援について、北野誠一様、よろしくお願い致します。

会場: (拍手)

―コーディネーター東洋大学の北野誠一さん、どもりがちに、自己紹介―
濃縮シンポジウム「自立支援って?」のみなさん。左からコーディネーターの北野さん、中村さん、惣万さん、妻屋さん、小島さん

北野:  私、数年前、言友会というどもりの方の会に呼んで頂きました。どんな話をしましょうかと聞いたら、代表の伊藤さんという方が、「当事者として話してください」と言われたんです。彼は、私が元どもりだったことを見抜いているんですよね。私は実は初発性のどもりで、はじめの言葉が出てこなかったんです。それを見抜かれてしまって、仲間として講演したことがありました。今日はこういうすごい人達の前でどもっちゃったらどうしようかと思って……。はじめの言葉が出なかったら、永遠にこのシンポジウムが進まないのですが、由紀子さんが見てて下さるので、何とかやれそうかなと思います。
 一応、私の専門は障害者福祉論ですが、私の意見を述べる時間は今日は全くないようですので(笑い)、あとで、ゆっくり私の資料を読んで頂ければいいかと思います。

―今日のテーマ:予算が厳しい今、知恵をしぼらなくてはいけないこと?!―

北野:  1つだけ、話をさせて頂きますと、障害者の支援をしている人達にとって、今一番大変なのは、他の先進諸国と比べて、障害者の関連予算が非常に少ない。お金がとても少ないことです。アメリカのデータと比べても、非常に厳しい状況にあると。
 支援費という仕組みが障害者の居宅支援をぐっと引き上げてきたのは、しごく当然の流れだと思っています。現在の政治、政権の政策動向を考えますと、厚生労働省が居宅支援を裁量的経費から、手堅く、義務的経費に変えるのは、ある意味必要でもあります。それをどう、アップし、お金を獲得するにはどうすればいいかといことをしっかり考えていかないといけない、と思っております。
 障害者の自立支援法は、障害者運動による本当にゆっくりした着実な歩みである「地域生活支援」という流れと、「小さくて効率的な国家」という、わが国の政策動向とのある意味交わらざる接点がこの法律なんですよね。きわどく、交わらざるところで交わってしまっているこの厳しさの中で、障害者団体、支援する側、厚生労働省はそれぞれ知恵を絞って良い物を作っていくという、そういう話を今日は、お互いに結ばれながら、それぞれ話をしていただけたらと思っています。では、早速トップバッターの「このゆびと〜まれ」の惣万さん、よろしくお願い致します。

会場:  (拍手)

―「このゆびと〜まれ」の惣万さん流、「自立支援」とは?―
「住んでいるまちで、社会サービスを受けながら、自分らしく生き抜くことが自立」と説く 富山方式の生みの母、惣万佳代子さん(「このゆびとーまれ」代表)

惣万:  皆さん、こんにちは。
 では、すぐPowerPointをお願いします。私が考える「自立支援」とは、お年寄り、障害者、子どもなどが、地域で自立し、安心して暮らせるように支え、援助すること。 「自立」とは、自分らしく生きること。自分の力だけでやっていくこと。ひとり立ち。安心とは、心が安らかになること、心配しないことです。

―超未熟児の赤ちゃんと気持ちを通わせたのは?!―

惣万:  では、認知症のお年寄りにとっての自立とは。
 認知症のお年寄りが未熟児のよっちゃんにキスをしているところです。お年寄りも喜んでいるけど、よっちゃん、子ども喜んでいるでしょう。お年寄りは、子どもが大好きですし、あやすのが上手いのです。
 次お願いします。このお年寄りは、片目が見えなくて認知症の方です。よっちゃんは超未熟児で生まれました。678グラムで、卵でいったら13個分。生きるか死ぬかの生死をさまよいましたので、高濃度の酸素を最初にかなり投与したわけなんです。ですから未熟児網膜症と言われて、光が分かるか分からないの程度の視力なんです。
 だけど、よっちゃんとお年寄り、ちゃんと見つめ合ってるでしょう。何か心が通じたら、何か見えるのではないかと思っています。

―認知症のおばあちゃんも「このゆびとーまれ」に出勤?!−

惣万:  次お願いします。
 「このゆびと〜まれ」の名物おばあちゃんです。
 もう亡くなりましたけど。このおばあちゃんは認知症です。食べたかどうかが分からない。食べ物か食べ物じゃないかの区別がつかないんです。だけど、こうやって、子どもを子守できるわけです。自分でおんぶしたのですよ。そして、自分でおんぶひもも掛けたのです。若い、20〜30代のお母さん、今、おんぶできる人はいないですよ、ひとりで。このおばあちゃん、6か月の赤ちゃんの顔を見てね、「あれ、あんたも歯ないがけぇ。ばあちゃんみたいに入れ歯を作られ。」と言われました。もしも入れ歯を作っていたら、ノーベル賞もんかもしれないですね。
 はい、次お願いします。
 このおばあちゃんはどうです。 働いているでしょう。マズローの原理に、人間の一番高い欲求は自己実現です。認知症のおばあちゃんだってそうなんです。皆さんだって同じ、私だって同じなんです。自己実現なんです。認知症のお年寄りが、お世話されるだけじゃなくて、自分も何かのお世話ができたら、こんなにニコニコと、そして体を動かすことができるのです。このおばあちゃん、一方的にお世話されるだけだったら、生きているのが嫌になった、人の役にも立たん、迷惑ばかり掛けとる、となっていくがですよ、このおばあちゃん自分が、「このゆびとーまれ」に働きに来ていると思っていたから、うちの給料日になったら、事務所に入って来られて、「わしにも給料あたらんがけぇって、若いもん、役立たないものばかりに給料やって、わし、こんなに働いてるとんのに」っておばあちゃんが。自分の家で、デイサービスに出るとき、長男さんに、「兄ちゃん、わしも、働きに行って来っちゃ」と言って出るんです。そしたら長男さんが「何を言うか、小便ちびってばかりしとるくせに」なんて言って出していたんですよ。そのおばあちゃんがこんなに生き生きしてるんですよ。
 はい、次お願いします。
 そのおばあちゃんが認知症だったんですけど、亡くなる3年半ほど前から乳癌になりました。3年半、癌と闘いました。2001年の1月1日に、「このゆびとーまれ」で亡くなったわけですけど、亡くなる2週間前の写真です。皆さん、癌との闘いって、痛みとの闘いです。そして、衰弱してるんですよ。私たち近寄っても、起きられないわけなんです。だけど、大好きなユウキ君が来たらちゃんと起きて、何しとると思います。「ゆうちゃん、寒かろう。」って言って、靴下履かしてるんです。人間は、最期、死ぬまで人の世話ができる、ってことなんです。

―気管切開した男性の在宅生活を支える、ダイチャンという赤ちゃん―

惣万:  はい、次お願いします。
 難病のタケウチさんです。この方は、気管切開をして、ここに気管カニューレを入れています。はい、次お願いします。カニューレを入れていますから、しゃべることはできません。タケウチさんは、ダイちゃんが、赤ちゃんが大好きです。コミュニケーションができるのは、アイコンタクト、まぶたをつぶったりするのと、文字盤でしかできないんです。そのタケウチさんが、ウチにいったら、奥さんにコミュニケーションする、話をするわけです。何を話すかというと、ダイちゃんの話がほとんどなんです。ダイちゃんがはいはいした。ダイちゃんが歩き出した。今日、ダイちゃん機嫌が悪かって、熱出しよった。奥さんとちゃんとしゃべってるわけです。奥さんが電話をして、「ダイちゃん、歩き出したんですか。ウチの人は喜んどる」と。

 この方は、富山県のある総合病院を退院するときに、お医者さんに止められました。この人は在宅希望をしたんですけど、「とても無理です。あなたは老人病院に行きなさい」と。婦長さんも担当の看護婦さんも全部、老人病院を勧めたわけなんです。だけど、本人は「うちに帰りたい」。家族、奥さんも娘さんも、「お父さんをうちに帰らせてやりたい」とことの願望が強かったんですよ。どうしたらいいか、ということで、婦長さんがたまたま私を知っていたものですから、電話して、「惣万さん、こういう人がいるんだけど。私たち医療側で考えたら、とても在宅は無理。命の危険もある。」と。だけど強く希望されるから、一旦帰そうとなったと。でもお医者さん曰く、「帰っても1ヶ月しかもたんよ。」ってことで帰されたわけなんです。そのあたり、「このゆびとーまれ」がフォローしてくれと。そして1ヶ月しかもたない方が今4年半在宅で過ごしております。そして、4年半の間で入院したのはたった3日間です。ここ2週間前もボランティアさんと娘さんと一緒に露天風呂に入ってもらいました。露天風呂に行ったのはこれで2回目です。

―毎日切符を買って通う彼女にとっての自立―

惣万:  次お願いします。
 「このゆびとーまれ」には、知的障害者の方が5人、働いています。「このゆびとーまれ」とって、この5人は戦力です。そして「このゆびとーまれ」の雰囲気を、この人たちがよい雰囲気に醸し出しています。
 ナカムラキョウコです。ナカムラキョウコは養護学校を卒業して2回会社に勤めたんですけれども、2回とも首になりました。そして、「このゆびとーまれ」に勤めました。これで6月で丸11年になります。5人の班長として、生き生きと働いています。
 彼女は、越中八尾から富山市の「このゆびとーまれ」に通っています。どうやって通って来るかというと、越中八尾からJRに乗って富山駅に着きます。富山駅で乗り換えて、富山地方鉄道の3つ目の駅が荏原駅なんです。彼女が勤めて数年経ったときに、ウチの職員が、「惣万さん、ナカムラさんが1回ごとに切符を買っているみたいよ」と。例えば越中八尾から富山駅まで320円するらしいんですね。それを1回切符を買って。富山駅から荏原駅まで300円。片道620円の切符を、いちいち買っていたらしいんですよ。
 キョウコさんに「キョウコさん、定期券を買いなさい」と。1回ずつ買わんと。それと「定期にしてもらったら、あなたたちは療育手帳を持ってるんだから割り引いてもらえるよ」って言ったんですよ。まけてもらえるよ、と言ったんだけど、キョウコさんは嫌な顔をするんですよ。どうして嫌な顔するんだかなぁって、意味が分からないのかなぁと思って、お母さんに夜電話をしました。そしたらお母さんは、「惣万さんの気持ちは分かるんだけど、キョウコは嫌がるんです」と。「どうして嫌がるんですか。まけてもらえるんですよ」って言ったら、「キョウコは、どうして、私は普通にお金を出して、普通の人と同じで、JRに乗れないのか」と聞くそうなんです。「惣万さんだって、ちゃんと320円出して乗っているじゃないか。私がどうしてまけてもらわなければならないのか」と聞くらしいんです。そしてその後、「惣万さんと私は、どう違うのか」と言うんですよ。私は「ごもっともだ」と思いました。

―利用者から働く側になったカズヒコくん―

 はい、次お願いします。
 オオツカカズヒコです。オオツカカズヒコは富山養護学校の中学2年から高等部3年まで、「このゆびとーまれ」の利用者でした。利用者でしたから、利用料とご飯代合わせて1日3000円の利用料を頂いていました。その彼が「このゆびと〜まれ」で働いております。これで8年間経っています。
 彼は働いたときに、雪道を歩くことが出来ませんでした。それなのに2歳とか3歳とか5歳の子たちの介護をしないといけないんですよ。その子たちがさっさっさっと雪道歩くのに、彼は歩けない。それで、養護学校の先生に言いました。「オオツカくんは、12年過かって、卒業してきた。12年間あなたたちに教育を受けた。だけど雪道を歩けないのはどういうことか」と。「オオツカさんは雪国で育って、これからも雪国で生きていかなければならないのに、どうして歩けるような教育が出来ないのですか」と聞いたんです。そしたら学校の先生は、「そんなカリキュラムはない」と言われましたね。

 彼は養護学校時代から、私たち勤めて数年、1年ですか、親が全部送り迎えをしていました。送迎していました。これではいけないと思いまして、親にも来てもらって相談しました。何か、公共機関を利用して、「このゆびと〜まれ」に通勤して頂けないかと言ったときに、お父さんとお母さんにこう言われました。「惣万さん、うちの子は字も読めないんですよ。時計も分からないんです。人間は時計で動いていることも分からないんです。その子にどうして、バスで来い、電車で来いと言っても、どうしてそれができますか。私たちは送迎することが親の務めだと思っていますから、死ぬまで送迎をします」ってことを言われたんですね。「いやいやお母さんたちの気持ちは分かるけど、お母さんとお父さんが死んだときに、一番困るのはオオツカさんですよ」って言って、それから練習が始まりました。4年間過かっています、バスで来るのに。

 はい、次お願いします。
 タカシマさんです。タカシマさんは「このゆびとーまれ」に来て、これで3年目になるんですけれども、給料が年間70万円ほど出しています。そしたら、この方は月に6万8000円くらいの年金をもらっていて、これと2つ合わせて、彼はアパートでひとり暮らしをしています。夕飯のみそ汁を作っているところです。うちは5人の人が働いているんですけれども、ひとりでアパート暮らししているのは彼だけです。(スライド)はい、次お願いします。

―自立の3要素「所属すること,存在感、馴染みの人間関係」―

惣万:  こういう重症の障害児の方と障害者の方なんですけれども、例えば、作業所に行っても、作業をすることはできません。じゃあ、この人たちにとって、自立とは何だろうと私なりに考えまして、家族のほかにいくつか所属するところがあり、今だったら、「このゆびとーまれ」ですよね。所属するところがあり、その場で存在感がある、そして馴染みの人間関係があるということが、この人たちにとって自立なんじゃないかなと思います。そのことが、地域で生きる、地域で支えることになると思います。

―障害者をもつ母親にとっての「自立」と「このゆびとーまれ」―

惣万:  次お願いします。
 今度は障害者を持っているお母さんに、「あなたにとって、自立とはなんですか」と私が聞いたら、「惣万さんよ、そんな難しいことは分からないけれど、私は今50代です」と、そのお母さん。「老後に初めて不安を感じてきた」と。「今まではこの子を育てるのに一生懸命だったんだけど、一昨年、旦那が脳梗塞で、軽い発作なんですけど倒れた」と。「そして私の老後を考えたときに、もちろん厚生年金とかないですからね、その時に思った」と。
 「自分たちは、この子を育てたときに、学校へこの子が行っている間だけは、自由時間があったけど、学校から帰ってきた時間は、全部私たちが見ていた。その自由時間を与えてくれたのは、平成5年から「このゆびと〜まれ」が始まってから初めて自由時間があったった」と。「これからは、障害児をもったお母さんが、もっともっと社会にサービスを多くして、お母さんが選択できる、つまりこの子と一緒に生きることも選択肢、自分は、例えば、サービス事業者とかに預けて、働く、そしてやがては厚生年金をもらえるような社会、選択肢が多い方がいいんじゃないか」って言っていました。最後に言われたのが、「この子が生まれてきてよかったという社会、そういう社会を作りたいね」って言っておられました。

―惣万佳代子にとっての「自立」―

惣万:  はい、次お願いします。
 惣万佳代子にとって自立とは。これ考えたんですけど、なかなか難しいです。私は最初に思ったのは、「仕事がある」ということを思ったんです。仕事というのは、私たちは、お年寄りとか障害者をお世話して、そこから給料をもらっているわけなんです。そうしたら、私のどこかに、この人たちを支えていると、一方的にある意味では思っていたんですよ。それが、よく考えてみたら、精神的にも金銭的にも、この人たちに支えてもらっていることに気づきました。
 要するに、お年寄りとか障害者の方がいなかったら、私たちはご飯が食べられないんですよ。ですから「人」という字があるでしょ。こっちに支えたり、支えられたりして、世の中、順繰りになっているのだなぁとこの自立で思いました。また、「自立とは」と考えたときに、私は「自己決定」と「自分らしく生きること」、が惣万佳代子にとっての自立かなぁと思います。

惣万:  はい、次お願いします。
 これは簡単にだけ言いますね。介護保険法と自立支援法が私は結婚すればいいと思っています。これしゃべったら長くなりますので、(スライド)はい、次お願いします。

―全ての国民の自立は、死にがいあるまちづくりから?!―

惣万:  最後に、私が考えた名台詞なんですけれども、日本国民1人ひとりが、日々、感動とチャレンジ精神を持ち、次大事なんですよ、死にがいのあるまちづくりを進める。死にがいですよ、ここで死んでもいい、この日本で死んでもいい、富山で死んでもいい、富山の富岡町で死んでもいいという覚悟と、それで幸せを感じるまちづくり。そしたら、国民すべてが自立するんじゃないかなぁと思います。どうもありがとうございました。

会場:  (拍手)

北野:  惣万さん、とっても素敵な写真なんですよね。見ていると、赤ちゃんというのは支援を引き出す力、支援力があるのよね。赤ちゃんにも、障害を持っている方にも高齢者にも、みんな助けたり助けられたりする力があるのよね。見てるとね。

惣万:  無抵抗な子どもを見て、笑わない人はおらんですよ。にこやかになります。嫁さんを見たらみんな顔が引きつります。(笑い)これ、冗談ですけど。子どもだったらそうなるです。

北野:  どうもありがとうございました。時間がシビアですので、すぐに次に行かせてもらいます。
 妻屋さん、自己紹介も兼ねてやって頂きますので、どうぞお願い致します。

会場: (拍手)

―全国脊髄損傷者連合会の理事長の妻屋さん―
自立支援法と介護保険法の利用経験者として自立を阻害する「制度」について語る妻屋明さん(全国脊髄損傷者連合会理事長)

妻屋:  全国脊髄損傷者連合会の理事長の妻屋と申します。皆さん、はじめまして、よろしくお願い致します。頑張ってやらして頂きます。
 PowerPointお願いします。私は、利用者の立場に随分長いこといるわけです。障害者になってからもちょっと古いです。そういった立場から、自立について、あるいは自立支援のことについてお話させて頂きます。

―障害者から高齢者へ―

妻屋:  スライドお願いします。
 このように、私は、1973年に32歳で、四肢麻痺の障害を負いました。これまで33年、この体でやっているわけですけれども、よくまあ長生きできたと思っています。
 実際に地域で生活したのは、1977年ですから、今から29年前に、横浜に独居で生活を始めましたわけです。
 最初の頃は、私はもっと状態が良くて、少し両杖で立って歩けるような状態でした。だから一般のアパートで住み始めたわけです。1階のアパートですが、そこは3段ぐらいあるんですが、それでも杖で上がることができる状況でありました。

 ホームヘルプサービスを受けたのは、27年前、1979年に、当時はまだ家庭奉仕員派遣制度というやつですね。これを受けるようになったのです。それまで2、3年は自分で自炊をやっていて生活していました。自炊をして、洗濯をして、掃除して、全部自分でできたわけですけれども、ある日突然、このままいくと偏食をして病気になるのではないかと思いまして、初めて家庭奉仕員派遣制度を受けて、「調理をお願いします」と言いました。「調理は何でも食べますから、ヘルパーさんが、家庭で作っているような食事を作って下さい」と。「何も文句は言いません」「出されたものは全て食べます」ということで、現在まで元気で、憎たらしいほど元気で生活できていると思います。
 今でも同じ、ヘルパーさんに作ってもらって、ちゃんと食べておりまして、おかげさまで元気でいられるということです。

 そういうことで私は、この選択は非常に正しかったと思います。その当時、国はそういう細かいことには枠を掛けないで、私が不在でも、ちゃんと食事の支度あるいは掃除、洗濯をやってくれた時代でした。なぜ私が不在かというと、私は当時働いていたわけなんですね。横浜で工場を作って、そこで仕事を始めたわけです。そのために、毎日通勤しないといけないので、私が留守になるわけです。
 「それでいいですか」と言ったら、そのときは「いいですよ。留守に入ってちゃんとやりますから」という答えを頂いて、2002年の支援費制度が始まるまで、随分私は社会で活躍することができました。そして税金も納めることができたんですね。一人前に納税をして、申告なんかをして、税務署なんかにもよく行っていました。おかげさまでした。

 だけれども、私は50歳になってから、こういうことは辞めようと。障害者団体の活動を始めようと、それが私の最後の仕事だと思いまして、仕事を辞めまして50歳から今の団体に入って活動しているわけです。

―本人が不在の場合は家事援助が受けられない―

妻屋:  次お願いします。
 そういうことで私がうちに居なくてもヘルパーが入って、ちゃんとやってくれたのですね。だけど、支援費になってから、「日本でお前だけだ。留守に入っているのは」と有名になりましてね。福祉事務所とかヘルパーセンターから来て、「どうしてもこれは止めてくれ」と。「あなたがいるときにしかサービスができない」ということになりました。これは支援費制度の中に、Q&Aにそういうことが書いてありまして、留守ではあがれない、サービスが受けられないと書いてありましたので、それで、私はその時から家にいるときにしかサービスは受けられなくなったわけです。

 そうするとどういうことになるかというと、私が社会で約束している、何日の何時に行かなければならないという時、「いや、今日はヘルパーさんが来るからそれは行けません」というような、「そういう約束はできません」という状況がたくさん出てくるわけですね。それでも私は、「じゃあヘルパーは今日はいらないです。こっちの約束を第1にしますから、こっちの約束を守るためにヘルパーさんは今日は欠席して下さい」といった状況が、2003年から続いたわけです。

 また、自立支援法がこの4月から適用されましたが、それもやはり以前と同じように不在のときはヘルパーサービスは受けられない。ちょうど私は今年65歳になりまして、今年から介護保険制度になったわけですね。私はこう見えても、恐れ多くも要介護3という認定をもらいました(笑い)。これは勝手にそういうのを付けられている、私は非常に不満に思っています。誰が私を差し置いて、「あなたは要介護3だ」なんてよく言えるなとちょっと思ったわけですけれども、そういう制度なので、今は馴染んでいるわけですけれども。しかし、やはり留守中にはあがれないということで、今非常に苦労しています。今日は土日ですから、土日は私ヘルパーを呼んでおりませんので、今日は自由にできます。

―自立、それは、選び、決定をし、責任をとること、役割を果たしくこと―

妻屋:  次お願いします。
 長年、重い障害を持っていて、地域で普通の生活をしてきた。そういう制度のおかげで自立してこられました。そういう制度がなければ、私は今頃施設で埋まっていると思いますが、制度のおかげで、これまで元気でやってこられた、ということが一方ではあるわけですが。私は障害になって33年と言いましたけれども、およそ20年間は自立など考えたことがなかったですね。自分としては普通に生きていたつもりなんです。
 自立して生きていたというつもりだったんですが。人に説明しなければならない立場になりましたから、これをどういうふうに一言で言わなきゃいけないのかなぁと思ったときに、今から13年くらい前に、初めて人に説明できる言葉が頭に思いついて、ここに書いたんですけれども。

 どんなに重い障害があっても、自分の能力、残された能力を最大限活用して、自分に与えられた役割を果たしていけば、それで自立になると、今、皆さんに申し上げているところなんですね。これはかなり厳しいことだと思います。自立って本当にこんなに厳しいものかと言われるくらいの、今の言葉だと思いますが、普通の人でも自立している人としていない人がいるんではないかと思いますが、私の考え方から言うと、こういう言葉が自立であるというふうに思っております。
 だけれども、人は自由ですから、自立しようがしまいが、それは人にどうのこうの言う立場ではないですから、これは私の考え方だと思って下さい。

 自立を支援するには、自分で選ぶ、あるいは決定する、そして責任を取る。こういう環境を作って頂くのが、またこういう環境がなければ、私も偉そうにここに来れるような立場ではないのですが、こういう環境があるからこそ、今ここに来ることができるのだと言えると思います。
 もう1つは、主体性が尊重される社会。「お前は車椅子乗っているくせに偉そうなことを言うな」という社会環境ではとてもじゃないですが、生きていけないですから、こういう尊重される社会、車椅子を乗っていても、どういう重い障害があってでも、一人の人間を普通に見て頂くという、そういう社会が自立支援になると思うんです。
 もう一つは先ほど申し上げたように、どんなふうに生きても自由ですから、その自由は保障してもらわなければならない。「お前は介護保険を受けているから、こうこうこんなことしちゃいけないよ」とか、あるいは「自立支援法を受けているから、そんなことやっちゃいけない」というふうなことを言われては、本当に自立はできない。そんなんだったら、施設に入った方がいいと思ってるわけでございます。

 自己選択、自己決定ですから、自分が自立しなくても、それは自己選択も自己決定だと思っていますから、それはそれで良いと私は思っているわけです。自立ということと自立支援ということを、私は前提として、次お願いします。

―制度が、自立を邪魔している―

妻屋:  現在の在宅サービスについて、こういう問題があるということです。
 まず先ほど言いましたように、例えば、働いていたり、重い障害があっても社会に出て働いていたり、あるいはスポーツをやっていたり、あるいは世話人をやっていたり、町内会の役員をやっているなどの立場があると思うんですが、そういった場合は、家事援助に限っては留守中にやって頂くと。そして、私は社会で活躍するけれども、ホームヘルパーさんは私の家に来て、掃除・洗濯・食事の支度をしてもらえれば、非常に自立支援になると思っているのですが、これができないから私の自立は阻害されていると思っているわけです。

 介護保険制度でも、4月から新しく制度が変わりましたが。これまでは家事援助を3時間連続でやって頂けました。そして私のところへ朝10時にヘルパーが来て、掃除・洗濯・調理全部やって、もう忙しいのですけれども、3時間でこなして、それでワンセットで終わりなんです。そうすると、10時から1時までですから、私は1時からフリーになるわけですから、1時からどこでも出掛けられるようになるわけですね。ということだったんですけれども、今度は家事援助に限っては、1.5時間を限度となったんですね。どうしても3時間受けたければ、2時間休んでまた1.5時間という制度になったんですね。そうすると、朝10時に来て、11時半まで調理をやって、また2時間休んで、それからまた1.5時間来るんですよ。それで3時に終わるわけですね。
 そうしたら、私の時間はそれで全部取られてしまうんですね。これはやっぱり自立を阻害しているんじゃないかと私は思います。こんな制度になったのはなぜなのか分からない。よく聞いてみますと、これは適正な処置をした、と言いますが、やはり抑制なんですよね。抑制として、こういう制度になったと思います。

 他にもいろいろ抑制があると思いますけれども、抑制するんだったら、私に要介護3をくれない方がいいんですよ。要介護2.5とか2にすれば抑制になるわけですけれども。しかし、私は要介護3をもらっているんですよ。これだけ使いなさいという書類が来るんですよ。そうすると、使えないじゃないですか。要介護3というのは何だったのかということになるわけですね。
 つまり、私の自由が阻害されたら、自立を阻害しているということになりますから、こういうことで税金を使うのは非常にもったいないと思います。私が社会で活躍をして、その支援をして税金を払うなら、国民の皆さん、承諾してくれると思いますよ。だけど、私を家に留めておいて、活動を止めて、税金を使うのはこれはちょっとおかしいのではないか、と思うんです。今日の結論はそういうことで、細かい話で非常に恐縮なんですけれども、自立支援ということになると、こういうことになると思っております。ありがとうございました。

会場:  (拍手)

北野:  惣万さんが、介護保険と自立支援法の結婚という話をされましたけれども、妻屋さん、何かお考えがあれば。

妻屋:  制度があるから、偉そうなことを言って、こんなところへ来れて、そして、いろんなところに行けるわけなんですね。制度のおかげだと私は思っています。そういう面では、制度としては介護保険でも自立支援法でも何でも良いと思います。
 しかし、その中身の問題で、先ほど言ったように、自立できるような中身であれば私は大賛成だけれども、とてもそうじゃないので、介護保険と自立支援法を一緒にしたらおかしくなるんではないかと思っています。まだ、自立支援法の方が、もう少し自由度があるのではないかと思います。せっかくお金を払うようになったのだから、今まで払ってなかったんですけれども、払うようになったんですからそれも言えるのではないかと思います。

北野:  どうもありがとうございました。
 次は小島さんなんですけれども、小島さんは後ですごい仕掛けがあるそうなので、楽しみにして頂けたらと思います。小島さんどうぞよろしくお願い致します。

―石神井訪問看護ステーションの小島操さんは、福祉用具の草分け―
「事件は現場で起こっている!!!!!!! 見ないで決めないで!現場のチームワークが自立支援のカナメ」と語る小島操さん(石神井訪問看護ステーション相談室長・介護支援専門員)

小島:  練馬区の石神井訪問看護ステーションから来ました、ケアマネージャーの小島と言います。福祉用具のことについて自立支援を考えてみよう、ということでお話致します。ですから、介護保険制度を中心としたお話になります。
 なぜ私がケアマネージャーで福祉用具お話をするのかと言いますと、私は、ここにいらっしゃる方もたくさん関わりを持った方がいらっしゃると思うんですけれども、飯田橋にございました福祉機器展示ホールというところに開設から15年、福祉用具の相談員をしておりましたソーシャルワーカーです。その後、ちょうど介護保険が始まる2000年に現場の方に行きまして、今まで5年間、現場のケアマネをしております。あのころ、展示ホールに行ったという人がいましたら、あとで私のところに来て下さいね。ではPowerPointお願いします。

―事件は現場で起こっている!?―

小島:  「えっ、ちょっと待ってよ」と思ったことを、皆さんに説明して帰りたいと思います。
 介護保険の中で今年から制度が変わりまして、福祉用具のレンタルという使用が制限を受けることになったお話を致します。
 「事件は現場で起こっている!!!!!!! 見ないで決めるな! 自立支援、これは、現場のチームワークが重要!」
 これは、「えっ」と思ったときに浮かんだキャッチコピーでございます。どこかの映画にもありましたように「事件は現場で起こっていて、厚生労働省の机の上で起こっているのではございません。」見ないで決めないでほしいということと、私どもとかや惣万さんとか、ここにいらっしゃるたくさんの方、支援を行っている人の力を信じてもらえないかな、というお話です。

―「自立支援」と「尊厳の保持」を基本に―

小島:  次お願いします。
 今回の改正の中で、厚生労働省が出しましたのは、自立支援と尊厳の保持でした。
 「尊厳の保持」という言葉は、改めて、介護保険法の1条の中に加えられております。この尊厳の保持とは何だろうかと今日は考えて頂ければと思います。

―福祉用具レンタルについての改訂―

 ↑※クリックすると拡大します。

小島:  次お願いします。
 これが、福祉用具レンタルについて行われた改訂です。ごちゃごちゃ書いてありますけど。要支援1と2、要介護1の方に、次の5品目のレンタルができないということになりました。特殊寝具、車椅子、床ずれ防止用具及び体位変換器、認知症老人徘徊感知器、移動用リフトの5点です。
 次お願いします。
 この5点を特例として認めてレンタルを行うなら、このような、例えば今、妻屋さんを要介護3と認定したときの「基本調査」という紙の上で、当てはまるか当てはまらないかを決めるということになりました。
 次お願いします。
 この部分を少し拡大します。この中の、2-2「起きあがりについて」というようなところがあります。こういうとこらが「できない」となっていればベッドのレンタルは可能です。
 次お願いします。
 次の、例えば、「移動について」2-7、ここで「全介助」というようになっていれば、車椅子は貸してもよろしい。そういうような規定になりました。

―「厚生労働省は仲間じゃない」とおもいました―

小島:  はいお願いします。
 そんなことを言ったって、要支援の人、要介護1の人、いろいろなケースがあるじゃないか。こういうときは現場のケアマネージャー、ソーシャルワーカー、福祉事務所の人、いろいろな人たちの協議で決めていいんじゃないか、と質問したのがこれです。
 「ケアマネ(地域包括支援センター)及び保険者が必要と認めた場合には、支給が可能か」という質問を出しましたところ、3月27日に答えが出ました。

 「福祉用貸与費の算定における状態像については、介護保険給付費分科会において、要介護認定の認定調査における基本調査の結果を活用して客観的に判定することが求められており、認められない。」要するに先ほどの調査結果でしか認められない。
 「現場の判断は認められない」ということで、私はWAM-NETでこのページを見たとき、ほとんど泣きたくなっちゃう気がしたんですね。すごく無念さを感じました。私は現場の地を這うようなケアマネを5年間やって、あちこちでいろんなことがあって、修羅場をくぐりながら今まできました。
 介護保険法を、良い物にしていきたいという気持ちがあってですね、厚生労働省を敵だと思ったことは、1度もなかったです。一緒にやっていきたいと思っていたのに、私、このときだけは、「厚生労働省は仲間じゃない」というふうに思いました。

 次お願いします。
 これは電動三輪車です。これも車椅子と同じ範疇ですよね、支給は認められなくなります。
 次お願いします。
 今、この方が使っていて、この方が要介護1です。杖で補装具を付けて、室内は歩くことはできますが、長距離は歩けません。先程の電動三輪に乗って、デイケアに通って来てます。こんな感じです。これを取り上げられちゃう、要支援2という判定になってしまうと難しいのです。「これでデイに来るのはどうしてなの、デイのバスを使わないのはなぜ」 って聞いたことがあります。
 そしたらですね、この人が「小島さん、僕はね、定年まで働いていて、いつも朝何時までに会社に行くってことで、朝、目が覚めたときから、ずっと時計を見て、何時までに行かなくっちゃって、毎日を過ごしてきてやっと定年だったんだよ。定年から後、デイケアに行くのが大体アバウトな時間で行けるのが嬉しかった。今度バスの時間が何分って気にして生活したくないな」と言うんですね。そのことって、人間の尊厳かなというふうに思っています。
 次お願いします。
 これはこういうベッドはダメだというものなんです。このベッドをこの方が利用しているのは、立ち上がりのバーを使って、よいしょっと、上体を起こして、立ち上がるときに使うわけなんですけれども、立ち上がりのための使用は認められなくなっております。電動で背上げする必要がある人には、レンタルしてよいというような規定になりました。
 次お願いします。
 このおじいちゃんも、一生懸命布団から立つことが、自分の力を使って、足腰の訓練になると言っていましたが、やはり危ないなと思っていて、布団から起きあがるとき、転んだときに、チャンスと思ってベッドを入れました。このおじいちゃんは、そこまで頑張ってくれた、今102歳なんです。102歳だからということではなくベットは奪えないと思うんですけど。「小島さん、あの寝台はいいね」といつも言うんですね。耳があんまり聞こえないから大きな声で話をしながら、「寝台があるから家にいられるよ。寝台があるからここまで(リビングまで)来られるよ。」って言うんですね。「寝台がなかったら寝ているなあ」と。起きあがり、立ち上がりのことを外したら、その人の1日の自立が始まらないということです。

―もう一度考えて・・・「自立支援」「尊厳の保持」―

小島:  次お願いします。
 これは考えてほしいです。自立支援ということと尊厳の保持ということ。介護保険の制度改正の筆頭にあげられた言葉の本当の意味というのを、皆さんの気持ちの中で、どういうことかと思って頂きたいと思います。

 介護保健法改正の理念には「制度の持続可能性を高める」と言う言葉もありました。それはとても大事なことだと私は思っています。
 抑制をするな、と言うことではなく、私が言いたかったのは、あくまで「現場を信用してほしい」ということです。現場を担当する職種の力を充実させて行かなくてはならないということ、その現場の力を信じてはじめて、制度は順調に起動する・・のではないでしょうか?一人一人に対応したプランがマネジメントできていくのではないでしょうか。厚生労働省は働きやすい現場を作って欲しいです。もちろんそのために私達はスキルアップをめざします。

 今後、給付管理表にはケアマネの全国統一番号も記載が義務つけられます。これによって私たちはケアプランについて、その継続的なマネジメントについても管理されることになりました。そのほかにも減算があります。これだけ管理するのですから、現場の判断は重要視されてよいと判断しています。いかがでしょうか・・・。

―国民会議へ中継―
別会場で開かれている「福祉用具国民会議」の模様がリアルタイムで映し出され、会場から沸き起こる大拍手

小島:  さて、今回私と同じ話題で、第2回福祉用具国民会議が開催されています。事業者・ケアマネージャー・学者・ジャーナリスト、いろんな方たちが集まって、今回の福祉用具のレンタルについての話をしようということで。あと私の持ち時間3分を使って、そこと今中継を致しますので。上手くいきましたら、拍手して下さいね。
 国民会議の東畠さん、聞こえますか。

東畠:  聞こえます。国民会議は2回目です。
 3月に行われたとき、コーディネートとして、ゆきさんに来て頂きました。今日はえにしの会に、小島さんの提示された話題への飛び入り参加です。こちらでも、福祉用具レンタルの規制と自立支援について、活発な議論が展開していますよ。和田勲さんがいますから、かわりますね。
 ・・・(中継音が途切れ途切れ)・・・

小島:  ありがとうございました。

東畠:  こちら、終わります。

会場:  (拍手)

小島:  よかったーという感じです。今、司会をしていらしたのが、東畠弘子さん。福祉用具のジャーナリストの方です。横にいらっしゃいましたのが和田勲さんという方で4月下旬ぐらいに、この問題について厚生労働省の前に2週間、座り込みをなさいました。その間、いろいろな支援を受けまして、それは「えにし」のネットの方にも出ていますので、見て下さい。
 とにかく成功してよかった。どうもありがとうございました。

会場:  (拍手)

北野:  声がもう少し通ったら、もっとよかったですけどね。手話通訳の方たち、ご苦労されたようですが。
 ちょうどほぼ時間通りにいっていますので、次に今の提起も受けて、中村局長から先に問題提起をしてもらい、後で私の方からご質問をさせて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

会場:  (拍手)

―厚生労働省社会・援護局長中村秀一さん―
中村秀一さん

中村:  中村でございます。15分の持ち時間の中で質疑のために少し時間を残せということで、一番時間がプレッシャーになっています。
 3人の方のお話は、1つは理念、自立支援の理念です。惣万さんが理念について語って頂きました。次は、制度というか、環境というふうに妻屋さんがおっしゃいましたが、環境の問題。3点目は、妻屋さんと小島さんの方からかサービスの中身、あるいはどういうサービスを提供するかという問題を巡ってのお話だったと思います。

―中村さんが今日ここにいる理由と伝えたいこと―

中村:  なぜ私がここにいるかというと、昨年、介護保険の見直しと障害者自立支援法の制定に関与しました。昨年の8月まで介護保険の担当局長をしていましたし、8月以降、障害者自立支援法の国会審議を担当する局長でございましたので、その立場からここに出てきて、皆さんに対して説明するようにということではないかと思います。

 これらの制度改革の理念につきましては、我々が介護保険を見直すときに、高齢者介護研究会を設置し、堀田力さんに座長をお願いし、整理いたしました。成果は、2003年6月に「2015年の高齢者介護」というレポートとしてまとめられています。その中で「尊厳を支えるケア」を目指すことが歌われています。尊厳とは何かということになるのですが、その根底にあるのは、自分の人生を自分で決め、また周囲からも個人として尊重されることであると論じています。個々人が、そのような意味で、尊厳を保持して生活を送ること、それが可能となる社会を創っていくこと、これが自立支援の基本であると考えています。詳しくは、「2015年の高齢者介護」を、是非お読み頂きたいと思います。

 理念の点は、以上とさせていただいて、私は、ここでは、制度・環境の問題をお話ししようと思います。すなわち、2005年の制度改正の考え方について説明したいと思います。また、北野先生から最初に問題提起がありまして、例えば、障害者行政に使われるお金が非常に日本は少ないんじゃないか、というお話もありましたので、そのことについての、私なりの分析もちょっとお目に掛けられたらと思います。

―福祉に起きている90年以降の「地殻変動」―

中村:  シンポジウムUに、厚生労働省のスピーカーとして辻厚生労働審議官が来ていますが、辻と中村と一緒に1990年の「福祉八法の改正」を担当させて頂きました。私は、介護・福祉については、1990年以降、「地殻変動」とも言ってよい、相当大きな変化が生じている、と考えています。介護・福祉は、大きく変貌しております。
 2005年の介護保険制度改正・障害者自立支援法制定は、このような1990年以降の発展、成果を踏まえて、さらに発展させる改革であると位置づけております。少なくとも、私どもはそう信じてやってきております。

 それでは、90年以降、福祉・介護において生じている「大きな地殻変動」とはどういうことでしょうか。この後医療改革のセッションがありますが、医療の動きと福祉・介護の動きは、90年以降、全く対照的な動きをしているというのが私の立論です。

―社会保障給付費の推移からみる「地殻変動」―

 ↑※クリックすると拡大します。

中村:  私は、この「地殻変動」を社会保障給付費で検証しようと思います。スライドは、社会保障にいくらお金をかけているか=社会保障給付費を示しています。
 2006年度の社会保障給付費は、89億円に達しています。この内訳は、福祉、医療、年金でありますが、グラフで一目瞭然のとおり、年金が一番多くなっています。社会保障制度改革として、2004年に年金改革が行われ、2005年に福祉改革=介護保険・障害者自立支援法があり、2006年医療改革に取り組んでいるというところです。

 そこで、私がいう地殻変動の意味ですが、1990年を区切りにして、その前の10年間=80年代と、1990年以降現在までの福祉と医療の給付費の変化に注目しています。
 1980年から1990年にかけての10年間で、福祉の給付費は3.6兆円から4.8兆円と1兆2000億円の増加をみています。この間、医療は、10.7兆円から18.4兆円と七兆7000億円増加しています。繰り返しますが、福祉が1兆2000億円しかしか増えなかったのに対し、医療は7兆7000億円増えています。80年代は、医療と福祉の関係は、医療が福祉の約4倍の増加をみたという状況でした。

 90年以降はどうであったか。1990年から2006年にかけて、福祉は4.8兆円から14.9兆円と10兆1000億円増加しています。これに対し、医療は18.4兆円から27.5兆円へと9兆1000億円の増加となっています。このように1990年以降、給付費(保険料と税金は、1980年代と全く異なった動きをしています。(福祉については、生活保護なども含み、すべて対人サービスすべてとうわけではありませんが、それにしても医療を上回る10兆1000億円の増でることは、注目に値します)90年以降、何かが起こっています。これが私の言う「地殻変動」であります。

―90年改革を振り返る―

中村:  そのことは、福祉の社会保障に占めるシェアにも反映しています。社会保障給付費に占める福祉のシェアは、1970年には16.8%であったものが、1980年には14.5%に低下してきております。1973年の「福祉元年」以降、保険料を財源をしている年金、医療の給付費が、急速に伸びたというのは、皆さんご存知だと思います。その結果、相対的に伸びの小さい福祉のシェアが低下してきました。
 我々が福祉8法の改正をした1990年が、奇しくも福祉のシェアが10.2%とボトムでありました。1990年以降、ゴールドプラン、新ゴールドプラン、エンゼルプラン、障害者プランなど基盤整備を進めることにより、また90年の福祉8法の改正を皮切りに幾多の変革を経て、2000年の介護保険制度の施行、2003年の支援費制度の実施、2005年の障害者自立支援法の制定につながっていると考えています。

 1990年のゴールドプラン開始当時の福祉のシェア10.2%が、2006年には16.6%まで上昇していきております。妻屋さんが言って頂きましたけれども、こういう環境=基盤整備、資金の投入がなければ、この場に参加して頂けるような状況を創れなかったと思います。確かに、そのとおりでありましょう。

中村:  今日の介護・福祉をめぐる状況を創りだした背景にあるものは何でしょうか。
 「地殻変動」と称して、今私がお見せしたのは、(手前味噌みたいな言い方ですが、)90年改革を検証し、政策評価する、そういう作業のために私が作業をしてみて、皆さんにお目に掛けているわけです。90年以降、確かに福祉・介護は変わってきたということであります。
 妻屋さんは73年に障害を持たれ、79年から、家庭奉仕員のホームヘルプサービスを受けている、とおっしゃいました。私が90年に辻さんの後を受けて、老人福祉課長をしていましたときに、日本に寝たきり老人は24万人といると厚生省として推計しています。これは、推計です。要介護認定制度もなく、当時は実人員は掴めてなかったのです。

 ホームヘルパーを派遣していたのは10万人でありました。24万人の在宅の寝たきり老人がいるといいながら、10万人しか派遣できていない状況でした。その10万人で年に何回かヘルパーさんが行っていたか。妻屋さんのところに年に何回行ったか分かりませんが、全国平均で年に48回でありました。つまり、週に一度行っていないのが90年の当時のホームヘルパーの現状でした。現在は、介護保険制度ができて、要介護5の方に、ヘルパーは何回行っているかというと、月28回〜29回となっています。

―介護保険と進化するケア―

中村:  このように提供されるサービス量が大幅に増大し、利用者利用者数も拡大しました。ホームヘルパー利用者数は10万人でありましたが、現在は100万人以上の方がホームヘルパーを利用しています。1人当たりの利用量も、先ほど申し上げましたように「年に48回」から「月に28〜29回」と格段に増加しました。
 量が増えただけではありません。新しいサービスも登場してきています。サービスを組み立てる仕組みも変化してきました。

 1990年の頃、我々が改革に着手した頃は何もなかった。在宅介護支援センターを何とか作りましたが、ケアマネージャー、ケアプランはありませんでした。ということでケアマネジャーとしての小島さんは存在しなかったですね。ケアプランもない。先ほど来、要介護度いくつという言葉が出てきていますが、要介護認定もありませんでしたし、「寝たきり老人」の定義もなかったのです。

 それが要介護認定ができ、「痴呆」と呼んでいたのが「認知症」という言葉にも変わり、グループホームもでき、ユニットケアが導入されました。様々な居住系サービスができました。つまり、皆さんタイムスリップして90年の世界に、あるいはもっと遡って妻屋さんがサービスを受けられたときの世界に戻ると、(個々のケースはいろいろ差があるかもしれませんが、)非常に乏しい社会資源、福祉資源のもとでケアされてきたことがお分かりになると重います。
 ここ15〜16年間、ケアが格段に進歩する中で、そういう一般の水準が上がっている中で、障害者福祉につきましても展望が開けてきたというのが私の認識でございます。時間の制約がありますのでどんどん先を急ぎ、2005年改正の中身については、割愛致します。

―障害者施策の現状とこれから―

中村:  障害者施策について、お話します。障害者施策については、まだまだ基盤が足りません。介護保険における地域差(都道府県間の地域差)は、1.7倍となっています。ところが、障害者施策については、都道府県間の地域差が7〜8倍あります。市町村間の地域差は測れないほど大きいものがあります。サービスのない市町村もあるからです。「サービスがゼロ」と「サービスのあるところ」の差は何倍と言えないからです。

 つまり障害者行政は、(こんなこと胸を張って言えることではありませんが)行政として確立していないと思います。サービスがまだ全国的に均霑していません。当事者、障害者団体それから一部の行政当事者の努力により、極めて進んでいる地域もあるかと思いますが、全国的に障害者施策が進展しているかと考えますと、あるいは全国の国民の皆さんが障害の状態になったときにサービスを受ける状態にあるかというと、高齢者行政に比べまだまだ立ち後れているというのが私たちの認識です。1990年に高齢者介護においてそうだったように、障害者施策においても市町村が中心となって施策を本格的に進めていく体制の確立が、今回改正の大きな柱です。また、障害者施策は、今回改正により、精神障害者も対象とし、3障害の一元化を図ることといたしましたが、発達障害など、まだまだ対象となっていない様々な問題を、地域福祉という観点から取り組んでいかなければならないと思っております。

―福祉現場で働く人が一生懸命働きつづけられることが質のよいサービスへ―
老健局長として介護保険改正を手がけ、引き続き社会・援護局長として自立支援法と取り組む中村秀一さん はパワーポイントと資料を用意して熱弁

中村:  昨年、国会で、障害者自立支援法、介護保険法の見直しを審議して頂きましたが、その中で、いろいろご意見を賜りましたし、附帯決議もつきました。私は現在、介護に従事する人材の確保を担当しています。その立場から、また、介護の質、福祉サービスの質を高めるという観点からも、ここにご紹介している国会での附帯決議を重く受け止めております。現在、施設の介護に従事者している者の4割は介護福祉士になっておりますし、ヘルパーの10人に1人は介護福祉士です。昨年の社会保障審議会介護保険部会の報告書においても、介護は「将来的には介護福祉士を基本とする」とされています。このような観点から、介護福祉士制度の見直しをしたいと思っております。

 課題としては、介護労働者の労働条件を高め、介護福祉士を基本とする体制を確立する。それから、質のよいサービスをして頂くためには、働いている人が「一生働き続けられる場」である福祉の現場でなければならない。そう考えていますので、そのような見直しをしていきたいと思っています。
 時間を使いはたしてしまいましたので、ここで終わらせていただきます。

会場:  (拍手)

北野:  どうもありがとうございました。
 制度や仕組みを良いものにしていこうという思いは、皆さん共通した思いの中で営まれていると思います。ご本人の自立生活や自立をもう少し、少しでも良いものにしていこうということで、今日はこうして討論になっていると思うのです。
 例えば、妻屋さんの方も小島さんの方もおっしゃったのは、もう少し、現場の当事者ご本人と、ケアマネージャーさんとか支援の方がチームの中で、ここはどうしても必要であるということについて、もう少しちゃんとした判断、裁量ができるような仕組みにならないんだろうか、ということが一番大切なことだとおっしゃっているんだと思うのですね。そこについて、もしお考えがありましたらどうぞ。

―中村さん答える!事件が起こる現場に向けて―

中村:  福祉用具のお話がありましたけれども、介護保険制度が始まる前、福祉用具支給事業は規模として年に100億円もサービはなかった。それが、現在では福祉用具について、そのレンタル料としては月に180億円を介護保険制度で支払っています。年間2000億円程度の規模になっています。介護保険制度における訪問看護の給付費が月に100億円でありますので、福祉用具の事業は、介護保険制度導入後急速に伸び、主要な介護保険制度の給付となっていることが分かります。

 このように、急速に伸びたサービスですので、その中で濫用もあるのではないかという議論があります。このため、2003年頃に「福祉用具の適正使用」のマニュアルを作成し、周知いたしました。福祉用具の給付費に関するデータをフォローしていただければ分かるのですが、それから福祉用具の給付費の伸びは、明らかに変化して、「屈折点」が観察されますが、伸びが鈍化したということがあります。
 今回の福祉用具についての改正について、ご批判があるようですが、よく考えさせて頂きますが、背景には以上のような、福祉用具の適正使用を求めなければならないという状況があります。やはり「要介護の状態に応じて、最も適切な福祉機器を提供する」という考えのもとから実施しているということはご理解下さい。

 いずれにしても、妻屋さんのお話も含めまして、その方の自立支援のために、アセスメントし(その際、当事者の方と専門家の方たちが話し合って、合意を得て)、どういうケアプラン(という言い方がいいのかどうか分かりませんが)、サービス提供計画を立て、それにふさわしい福祉用具を提供していくことが基本であると考えます。こうした過程のそれぞれの技術が高まれば、また、そういうことが徹底すれば、今ご指摘があったようなご意見=現場の意見を基本として考えること、は正しい方向だと思います。
 今日、ご指摘頂いたことについては、老健局の同僚も来ておりますおので、持ち帰って考えさせて頂きたいと思います。

―求められる介護福祉士像―

北野:  どうもありがとうございます。私の方から1つだけ。介護福祉士の見直しの検討の資料が入っておりますけれども、私が教員になった2年後に、社会福祉士と介護福祉士の法律ができまして、新しい制度を作ったんです。そのときに私たちも議論がまずかったなぁって思っているのは、介護福祉士という仕組みは、他の国々特にアメリカなんかが非常に大きな問題を持っているので、フィジカル、身体のケアをきっちりやる専門職としての介護福祉士というイメージの仕組みを作ってしまったんですね。介護福祉士という名前ですけれども、「身体介護福祉士」というイメージなんですよ、どうしても。つまり、知的障害の方や認知症の方、精神障害の方、例えば、見守りを含めた、知的障害の方の自己決定、自己判断の支援を視野に含めたような専門職としての養成の仕組みを作らなかったのですよね。
 だから、私はむしろこれからちゃんとするのなら、知的障害者の方の自己選択、自己決定の支援、あるいは見守りの支援ということがちゃんとできるカリキュラムなり養成のシステムを是非とも考えて頂きたいと思っております。

中村:  私の資料の20ページに「求められる介護福祉士の像」として12ヶ条が掲げられております。その中で、心理的、社会的ケア(サイコ・ソーシャルケア)の重視、と言っています。(12か条の5番目。)この12ヶ条について、むしろ皆さんからご教示頂きたいと思っています。
 これは検討会に出している提案ですが、北野先生のおっしゃるとおり、フィジカルだけではない、むしろサイコ・ソーシャルケアを重視していきたいと考えています。その他、「予防からリハビリテーション、看取りまで」、「一人で切り回し、活躍できる人材」=個人の対応能力」とか、「アカウンタビリティを高めるための説明能力、記録記述力」など様々な提案をいたしておりますので、ぜひご覧頂きたいと思います。20ページです。

北野:  時間が押しておりますけれども、最後に一言ずつ、もしパネラーの方で何かあれば。他の方のパネラーの意見もふまえてお願い致します。
 惣万さんから、どうぞ、何か一言ありましたら。

―負担と給付のバランス―

惣万:  すいません、もう終わったかなと思って、何にも考えていないんですけれども。じゃあ、一言だけ。今、若年性の痴呆老人の方で、加算とか付いているんですね。私たちも若年性の人たち3人いるんですけれども、旦那さんは働かなければならない、そして妻が痴呆症なんですけれども。在宅にいるのに8万から10万の費用を払わないといけない。これは大変かなぁと。家族も大変だと言っています。
 これをどうにかできないかなぁと思ったときに、介護保険が始まるときは、子どもが社会の子として尊ばれるように、お年寄りも社会のお年寄りとして尊ぼうとじゃないか。そして、40歳以上の人たちで、私たちも含めて、それで支えようというのが介護保険の理念でしたよね。それなのに、例えば、老人とか若年性の人たちが在宅にいるのに8万も10万もかかっていたら大変かと思っています。

 60年代に日本の人たちにアンケートをとったときに、「あなたたちは、低福祉・低負担を望むのか、これからの福祉は、中福祉・中負担を望むのか、高福祉・高負担を望むのか」って聞いたときに、日本の国民は、高福祉・低負担を望むと言ったそうなんです。
 つまり、言っていることがおかしいんですよ。ですから、私たちがこれを考えたときに、私今54歳ですけれども、40〜65歳未満の第2号被保険者、人たちがもうちょっと保険料を払えば、もっと充実して、みんなが少しでも安心して介護保険とかを受けられるようになるんじゃないかと、私、日々感じている今日この頃です。もっと使いやすくできないのかなぁ、と思います。

北野:  ありがとうございます。ちょっと費用負担の問題を話す時間がなかったのでね。お金の問題はおっしゃるとおりで、高齢者の方は一般的に豊かになっているという判断をされている向きがあるのですが、高齢者の方の所得はすごく幅広くなっていて、非常に所得の低い方も、資産を持っていない方もいらっしゃるんですね。その方にとっては今の仕組みは、抑制になっている部分もあるよね。おっしゃったように。

惣万:  月に300人以下のデイサービスの介護報酬がぐっと上がったんですよ。私たちサービス事業者は嬉しいですよ。だけど払う人にとっては大変な話ですよ。それと若年性加算が入るものだから、かなりの負担になっていますよ。

北野:  自立支援法でも、費用負担の問題は大問題で…。
 では次に妻屋さん、どうぞ。

―自立への案内役として―

妻屋:  先ほど言いましたけど、公助・自助とありましたけど、共助に当たるものですけれど、私たちの団体では、今障害を負った人を対象に、支援していくピアサポート活動を全国的に展開して、サポーターを養成することをやっております。そういった中で、私たちは今、重い障害を負った人に対して、今の制度はこういうことで安心してあなたは自立できますよ、と案内をしなければならない立場になっているわけですね。
 そういった意味では、しっかりとしたきめ細かいサービスがやっぱり必要で、こういうサービスがあるから、あなたは重い障害を負っても大丈夫、何とでもなるよ、あなたの思うようになるよ、というふうに私たちは支援していきたいと願っているわけです。そのためにも制度はしっかりしておかなければならないと思います。ありがとうございました。

北野:  ピアサポーターの養成は素晴らしいですね。こんどの自立支援法にもあるように、自立支援では就労支援がもちろん大事ですよね。もう一つ、自立支援法は地域生活とか地域移行支援を強調していましたよね。地域で、重い障害を持っている方が暮らせる、そこのレベルまでいってほしいですね。ありがとうございます。小島さん、お願いします。

―現場のネットワーク―

小島:  飯田橋にいました最初の87年くらいに、スウェーデンに行ったときに、テクニカル・エイド・センターがありまして、同じ仕事をしている人たちがいる、私たちの仕事って仕事として成り立つんだと思ったことがありました。それ以後、現場に出たときに、私は自分の事業所でも、私たち現場で解決していく力をつけようと仲間と話してきたわけです。現場のネットワークで。
 できれば私たちは間違いのないソーシャルワークを行い、ケアマネージメントをし、きちんとしたアセスメントができて、プランが作れるということをやっていきたいわけで、それをどうか信頼できる国であってほしいと思います。そういう育成にも力を入れて頂ければと思います。

北野:  中村局長は、スウェーデンに3年も行っておられたので、補助器具センターとかもよくご存知ですよね。今日はそれを日本に始めて取りいれた秋田県鷹巣のメンバーも来ていらっしゃいます。局長はちゃんと分かっていらっしゃる方ですから、当然、それはして頂けると思っています。

中村:  今日は「えにしを結ぶ会」ですので、これを機会に、皆様と連携して、高齢者介護、障害者福祉を更に前進させないといけないと思っております。障害者自立支援法は、3年後には見直しをする義務も負っています。よりよいものにしていきたいと思っています。 どうぞよろしくお願いします。

会場:  (拍手)

北野:  時間がちょっと超えてしまいましたけれども、私も楽しい仕事をさせて頂きました。どうも今日はありがとうございました。

会場:  (拍手)

―空を「えにし」が飛び交ったシンポジウム―

山田:  ありがとうございました。福祉の現場を巡って、現場と政策のえにしが、火花が散るような感じでした。それから、国民会議の皆様とのネットワーク。空をえにしが飛び交うという、素晴らしい濃縮した経験をさせて頂きました。本当にありがとうございました。北野先生と皆さんに大きな拍手をお願い致します。

会場:  (拍手)

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