「私は介護という仕事が、人を支え励まし、誇りある人生の結実に役立つことを信じております」「公的介護保険制度は、日本の高齢者・障害者に、大きな福音をもたらすものであり、国民全体で、保険という拠出において、それぞれが連帯と共生によって行うことは、日本国民の優しい英知であろうと思います。保険給付は、額において不十分であり、質においても充分なものではありません。しかし、介護保険の充実により、質量ともに拡大していくことが可能であると思います」
「私のようなものに示された皆様方の愛情を胸にいっぱい抱いてお別れすることを幸せと思います。さようなら。 平成15年2月22日」
(コムスン創業者、榎本 憲一さんの「惜別の言葉」)
「榎本さんがコムスンを立ち上げたのは、社会的入院をなくしたかったこともありましたが、地域の民主主義を実現する手段でもありました。老いと介護は、対立軸をこえて万人が共有できる課題と考えてのことでした」
「今回の事件が、介護保険ができたときの『思い』の原点に立ち返り、『量の確保一辺倒』から、『労働環境と質を重視する介護』に生まれ変わる、きっかけになることを願っています」
(片腕だったナース、松永喜久恵さんから)
「心優しく真面目なスタッフは、コムスンから独立してそれぞれの地域で事業所を立ち上げてほしい。さいわい、在宅サービスは、施設と違って資本金は少なくてすむのですから」
「介護は、地域に密着した対人サービス。六本木から指令するシステムは似合いません。介護サービスは、その場で製造し、その場で消費されるもの。『移動と保存』による合理化の可能性はほとんどないといっても過言ではありません。『介護サービスの効率化』は『大会社化』ではない。経済界の合理化論は基本的な認識不足であるように思います。」
(内閣官房審議官・河 幹夫さんから)
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水増し請求の発覚に端を発した「コムスン騒動」のさなか、"福祉と医療・現場と政策をつなぐ志の縁結び係"を名乗る私が、親しい方々におくった「えにしメール」に引用した言葉です。
反響は思いがけないほど大きく、故・榎本さんを懐かしみ、讃えるメールが数多く寄せられました。
国立長寿医療センター総長の大島伸一さんは、中日新聞のコラム、『許せぬコムスンの不正』<pdf>で榎本さんの「惜別の言葉」を引用し、介護の仕事の素晴らしさと、驚くほどの報酬の低さを説いてくださいました。
立教大学教授の服部万里子さんは、河幹夫さんの呼びかけに心を動かさました。長寿社会文化協会と市民福祉団体全国協議会に提言し、「心優しく真面目なスタッフ」の独立をサポートする仕組みをスタートさせました。(窓口03−5935−7565)
榎本さんについては、この物語の第15話で少し紹介したのですが、これを機会に、その軌跡をふりかえり、右の写真のように、自らのHPで、安倍首相との親密な握手を誇示する「今のコムスン」と、どこに違いがあったのか、探ってみたいとおもいます。
榎本さんは、逓信省で労働運動に身を投じ、共産党の若手リーダーでした。ところが、路線闘争で脱退(党の主張では除名)。
遍歴の末、福岡の私設病院協会事務局長に納まっていました。そして、71年、つぶれる寸前の病院の建て直し責任者に迎えられたのでした。
榎本さんが引き受ける決心をしたのには訳がありました。院長の3人の子息から「佐久総合病院の若月俊一院長が取り組んでいるような地域医療を実践する病院に生まれ変わらせてほしい」と、頼まれたからです。
上の写真は、生涯の師と仰いだ若月さん(左)と榎本さんです。
松永喜久恵さんは、もとは、久留米大学付属病院のナースでした。
ところが、高校の同級生と結婚することになり、福岡に移ってきました。つぶれる寸前のこの病院を訪ねたのは、新婚の夫、英俊さんの勧めでした。
「筆記試験の小論文の題が『模倣と創造』、採用責任者も品格がある。会ってみたら君のためにもなるよ」
訪ねてみると採用責任者は不在。担当者の平凡な応対にがっかりし、見切りをつけて病院を辞し、バスを待っていました。そこに、担当者が走ってきました。
「採用責任者が戻りました!!!!!!!」
「バスが、もし、1分でも早くきていたら、榎本さんに出会うことはなく、このような仕事にかかわることはなかったでしょう。運命はほんとうに不思議です」
就職するや、喜久恵さんは、辞める決心をします。
「寝たきりのお年寄りが死んだ魚のような目をして、ずらっと並び、藁のベッドがヒト型に凹んでいる。破目板から冷たい風が吹き込んでくるのに暖房はなく、患者さんは野良猫を湯たんぽがわりに抱いて寝ている。元気な"病人"もいて、リヤカーを曳いてやってくる行商のオバチャンから魚を買って七輪で焼いている。大学病院の心臓外科にいた私には、この世のものとも思えない光景でした」
このような喜久恵さんの気持ちを察したように、榎本さんは見どころのある職員を集めて、夢を説きました。
「この病院は、幸い、駅前にある。この利点を生かして、地域医療の拠点に変えよう」
1カ月後、喜久恵さんは総婦長に。まだ、30歳でした。
長野から若月さんを指南役に招き、地域の商店街と手を結び、保健婦を8人も採用して、夢は着々と実現していきました。赤字も徐々に減って、5年後には黒字に。
役割を終えた榎本さんは、87年、病院を去ることになりました。
そして、88年、机1つで立ち上げたのが、コミュニティ・メディカル・システム・ネットワーク、頭文字をとった「コムスン」。
資本金300万円の在宅ケアをめざす会社でした。
写真は、後列左から3番めが社長の榎本さん、4番めが長年の同志で会長の妙子夫人。前列左から3番目が在宅介護事業部長の喜久恵さんです。
「デンマークには『寝たきり老人』という概念がない。起きてお洒落している。その訳は……」と朝日新聞でキャンペーンしていた私を榎本さんが訪ねてこられたのは、そのころのことでした。
創立1周年を記念して、89年4月16日、「今……在宅ケアを考える」が、400人定員の会場ぎっしりの人々を迎えて開かれました。
登壇者は、榎本さんが尊敬してやまない若月さん、在宅医療の草分け、佐藤智さん、尊厳を大切にするケアで知られる特別養護老人ホーム任運荘の施設長吉田嗣義さん、この「物語」の第20話「ヤーさんと9人のサムライたち」に登場する秦洋一さんと岡本祐三さんのコンビ、そして、私でした。
人前で話すのが大の苦手の私が、2台のスライドで日本と北欧を比較して人々を説得する手法を編み出したことは、第15話で告白しました。そのつたない話を、喜久恵さんのパートナー、松永英俊さんが、見違えるようにくっきりまとめてくださっていました。この「物語」を書くために『reportコムスン』の創刊号から70号までお借りして読んでいるうちに"発見"したのです。
自身のことで、恐縮ですが、当時を振り返るために、89年5月20日号を再録させていただきます。
「北欧の現状を踏まえると、在宅ケアを支えるには次の9つのポイントが大切」と私は話したようです。
@生活を支えるホームヘルプという仕事を基本に据えること
Aそのサービスが24時間提供されること。単位は、小中学校区であること
B訪問看護の働きが重要。それも、医学の範畴をこえソーシャルワーク的な仕事を含めたものであること
C補助器具センターが県単位ごとに設置され、リサイクル・保管ができ、各人に適した器具を選択できること
D在宅という密室に閉じ込めることにならないようデイセンターを設けること
Eそこで食事サービスも行われこと
F年を重ねてきた人のプライドの象徴としてお洒落ができること
G家族に頼らず移動できる仕組み
Hエレベーターを駅のホームに設けたり、団地の設計に身体の不自由な人への配慮をするなどのまちづくり
そして、こう結んだそうです。(そうです、というのもヘンですが、私自身は何を話したかすっかり忘れていたのです)
「在宅ケアが成功するか否かは、ヘルパーが社会の中で尊敬される仕事となること、税金の行方がわかるような形で政治が行われること。それが、大きな分かれ目になるでしょう」
英俊さんは、その翌月の89年5月、12日間のデンマーク調査団に加わりました。24時間対応のコミュニティーケアをこの目で確かめるためでした。そして、『reportコムスン』に詳細な報告を連載し、最終回を、こう締めくくっています。
「だれであれ、社会の責任で落ちこぼれさせない、国民全員に安心感を与える、そのための制度をデンマークは具体化させています。学ぶべき多くの点があることは間違いありません。人口2万のカルンボー市の福祉スローガンで、報告を終わりたいとおもいます。『絶えず新しく学ばなければならない。私たちに情報を与えよ。そして交換しよう。分かちあおう』」
コムスンが日本初めての「夜間訪問介護事業」に踏み切ったのは、それから3年後、92年8月15日のことでした。その詳細は次号で。