物語・介護保険
(社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第62話 「身体拘束ゼロ指定基準」前夜、そして5つの幸運 (月刊・介護保険情報2009年9月号)

介護保険が始まる前の年1999年1月の深夜のことです。
わが家に切羽詰まった声で電話がかかりました。電話の主は、厚生省老人保健課の森山美知子専門官(現・広島大学大学院教授)でした。
「去年の秋のあの社説を、大急ぎでファックスしていただけないでしょうか?」
介護保険の指定基準に「抑制禁止規定」を入れるかどうか、老人保健福祉局の審議官室で揉めている最中だというのです。私は大急ぎでその社説、『縛る医療−「福岡宣言」を全国に』をファックスしました。

「あのとき、連絡がとれて、ほんとうによかった」と森山さんは、いつも、いいます。これが、第1の幸運でした。
いまでは、病院にも広がりつつある「身体拘束ゼロ作戦」ですが、それが日の目をみたのは、いくつもの幸運と偶然が重なってのことでした。

◆"抑制"という用語をやめ、"縛る"に◆

最大の功労者は田中とも江さんです。
筑豊炭田の出身。中学卒業と同時に集団就職列車で愛知県の診療所へ。
住み込みで、朝は掃除、洗濯、昼夜は診察を手伝い、合間に准看護婦養成学校に通う内気な、気弱な少女でした。

准看護婦になり、16年間、精神病棟で働きました。
「患者さんが縛られても、床ずれだらけで亡くなっても、看護士に殴られても、どうすることもできませんでした。看護の仕事に誇りを持ちたいと思うようになり、看護婦の資格をとるための進学コースに通いました」

卒業と同時に東京・八王子の上川病院へ。
この病院の若き副院長、吉岡充さんも、誇りのもてる仕事を模索していました。
志ある仲間とともに「老人の専門医療を考える会」(第12話)を立ち上げて2年目の87年、提案しました。
「"抑制"という用語をやめて"縛る"と呼んだらどうだろう。カルテや看護記録にも"縛る"と書いたらどうだろう」

そのころ、とも江さんはこの病院の総婦長になっていました。
吉岡さんの提案に共鳴し、院内の紐という紐を捨てました。ベッドから落ちるという理由で縛られていた人は、床にマットレスを敷いて横になってもらいました。点滴の管を抜いてしまう人には、管が気にならないやり方を考えました。

◆人権侵害であるだけでなく、医学的にも不利益◆

写真@写真A

噂をきいて、親思いの家族がお年寄りを次々に転院させてくるようになりました。98年に調べてみたら、117人のうち65%が、その前に入院していた病院で縛られていたことがわかりました。
写真@は老人病院、写真Aは有料老人ホームでの夜の風景です。値段が高いせいか、写真Aの方は、高価なドイツ製の抑制帯で縛られています。
「縛る」ことが、人権侵害であるだけでなく、医学的にも悪い結果を引き起こすこともわかってきました。食欲の低下や褥瘡、関節の拘縮、心肺機能の低下、感染症への抵抗力の低下、認知症の進行など様々な不利益。そして、結果としての「抑制死」……。
けれど、専門家たちは冷やかでした。
「抑制してないなんて、軽い患者だけ入院させているからに違いない」
「見学者がくる日だけ抑制をやめているという噂だ」
義憤にかられた私は、朝日新聞の夕刊の「窓」というコラムに『ポアと抑制』を書いて、とも江さんたちの挑戦を紹介しました。95年のことでした。

人殺しを『ポア』と言い換えると、罪の意識が軽くなる。『人助け』と錯覚させることさえできる。
そんな言葉の魔術は、オウムの専売特許ではない。『抑制』という医療用語でお年寄りを縛る医療界も同様だ。

そんな中で上川病院に注目したのが、厚生省の広報室長になった山崎史郎さんです。上川病院を訪ね、97年、同省の機関誌『厚生』に大きく取り上げました。

◆10の病院が「抑制廃止福岡宣言」◆

写真B

東京の病院や施設が無視する中、とも江さんの故郷、福岡の病院長と看護部長が、ことの重要さに気づきました。
先頭に立ったのが、有吉通泰さん。保険外徴収しない信念を20年続けてきた患者思いの院長さんです。とも江さんと吉岡さんを何度も招いて極意を学びました。

そして、98年秋、福岡市で開かれた介護療養型医療施設の全国研究会の席で10の病院が「抑制廃止福岡宣言」を発表したのでした。それを現場で書いたのが、冒頭の森山専門官の電話の「去年の秋のあの社説」でした。
写真Bは、当日、スクリーンに映し出されたスライドです。
福岡宣言にはこうありました。

縛らないことを決意し実行する。
抑制とはなにかを考える。
初心を忘れないため病院内を公開する。
この運動を全国に広げていく。

◆「できっこない」「前例がない」◆

お話変わって霞が関。
厚生省の老人保健課で、日本の老人病院の実態に心を痛めているナースがいました。森山専門官です。
米国の大学院で学んだ森山さんは、老人や子どもが虐待されているのを「見てみぬフリをしたらプロとしての資格を剥奪される」というアメリカの法律に感銘を受けました。
介護保険導入を機会になんとしても、日本に導入したいと心に決めました。同僚を説いてまわりました。

老人保健課は老人病院や老人保健施設を管轄しています。
にもかかわらず、あるいは、それゆえにでしょうか。
「抑制禁止なんてできっこない」「政省令にそんなことを書き込むなんて前例がない」という反対意見が続出しました。
提案するたびに消えました。森山さんが、施設担当ではなく、在宅担当の専門官だったため、施設の基準に口出しすることは、越権行為ともみなされました。

光が射すきっかけは99年の元旦にやってきました。年賀状の中に田中とも江さんからのものがありました。
そうだ、この人の力を借りよう。
「病院に電話をしました。そうしたら、お正月なのに、彼女は勤務していて、電話がつながったのです」
第2の幸運でした。

とも江さんから、山崎史郎さんに話がつながりました。
このころ山崎さんは、特別養護老人ホームを受け持つ老人福祉計画課長になっていました。第3の幸運でした。

◆賛否の渦の中で◆

老人保健福祉局審議官室での話は難航しました。
反対派や慎重論派が譲らず、会議は長時間に及びました。
そのとき、第4の幸運が訪れました。
強硬に反対していた医系技官に急用ができて、会議を少しの時間抜けたのです。

その瞬間、山崎さんたちが話を持ち出しました。
それが、冒頭の電話につながり、運営基準案に拘束禁止が盛り込まれることになりました。

審議会の委員の中に味方が出てきました。
日本看護協会会長だった見藤隆子さん、89年の介護対策検討会創設以来継続してかかわっていた橋本泰子さん(第20話)が拘束禁止を強く支持しました。
当時、日本看護協会政策企画室長だった石田昌宏さんは、審議会を通るやいなや、実践例を豊富に盛り込んだ「拘束ゼロの手引き」をつくって配りました。
看護協会は全面支持に回り、その後の運動の中心になりました。

「実は、はじめは、僕も、拘束禁止なんて無理だと思っていました。精神病院に勤務していたころ、苦しみながらも拘束していたことがあるからです。
でも、上川病院を訪ねて、やればできると、確信できました。そこには、とてもおだやかな時間が流れていました」
各県の担当課長を集めた説明会では、看護協会のこの冊子が配られました。
吉岡さんと田中さんたちの極意は、医学書院の名編集者、白石正明さんの助言を得て、99年秋、『縛らない看護』という分厚い本に結実することになります。

◆役所ばなれした2つの作戦◆

身体拘束禁止の規定が介護保険指定基準に盛り込まれものの、どう広げていくかが死活的な課題でした。
医療・看護・介護の現場に反対論が根強かったのです。
ある老健施設長の医師は、20枚ほどの手書きの手紙を送ってきました。そこには、「官僚主義」「世間知らず」「現場知らず]と、罵倒の言葉が書き連ねられていました。
正面から反対できないなら、「骨抜き」にするというやりかたが横行するおそれもありました。

写真C

山崎史郎さんたちは2つの取り組みを進めました。
第1は、医療・看護・介護分野のキーパースンが入った「身体拘束ゼロ作戦推進会議」です。
座長は井形昭弘さん、これに、特養ホーム「あじさい荘」の鳥海房枝さん、日本看護協会の山崎摩耶さん、吉岡さんも加わりました。
委員の一人、北海道奈井江町長の北良治さんは、「自分も親が病院で縛られた姿を目にしました。それを認めざるを得なかった自分を後悔しています」と告白しました。この会議は、その後の運動の推進母体となりました。
「あじさい荘」は、天皇陛下の視察先にも選ばれた特養ホーム。写真Cはここのお祭りでの山崎史郎さんと田中とも江さんのツーショットです。

第2は、「身体拘束ゼロへの手引き」の作成でした。
ふつう、行政では、法令を現場に周知するには通達を出すことぐらいで終わります。
けれど、この基準は、それだけでは形骸化するおそれがありました。「手引き」の狙いは、山崎史郎さんによれば、こうです。

(1)この問題を医療・看護・介護の現場(とくに看護師)が真剣に自らの問題としてとらえる姿勢をもってもらうこと
(2)「例外3要件(切迫性、非代替性、一時性)」の厳しい運用を貫くこと
(3)その一方で、拘束をしないで済むような現場の工夫や取り組みを紹介すること

この思いは、手引きの前文「高齢者ケアに関わるすべての人に」という文章に滲み出ています。現場の人たちの心に届くものを、と山崎さんが何度も推敲を重ねて書いたと伝えられています。

身体拘束をしないケアの実現にチャレンジしている看護・介護の現場を見ると、スタッフ自身が自由さをもち、誇りとやりがいをもってケアに取り組んでいる姿に出会う。
身体拘束をしないことにより自由になるのは高齢者だけではない。家族も、そして、現場のスタッフ自身も解放されるのである。

手引きは隠れたベストセラーになり、2001年の作成から8年たった今も、注文が入り、約14万部になりました。定価は実費分の600円(送料別、注文先は福祉自治体ユニット事務局03−3266−9319)です。

昨年9月、名古屋高裁は、急性期病院での身体拘束に有罪を判決しました
その中で、「手引き」が再三引用されました
「介護保険の基準が、判決の裏付けを得て、急性期病院にも適用されたことは、大きな一歩だと思います」と、山崎さんは感慨深げです。

◆「最初に前例を調べてはいけない」◆

この基準が通った背景には、もうひとつの幸運がありました。
山崎さんと森山さんの上司で当時の審議官、堤修三さん(現・大阪大学教授)が、前例を吹き飛ばすのが好きな異色の行政官だったのです。

「どうしたら一番よいか、自分のアタマでまず、よくよく考えること。答えを見つけてから、念のため前例を調べること。最初から前例を調べては駄目だ」

堤さんの後ろ楯があって、前例のない身体拘束禁止の運営基準が介護保険制度に盛り込まれることになったのでした。
このとき、堤審議官が思い浮かべた悪しき前例は精神病院でした。
患者の行動制限には法律で建前としては歯止めがかけられている。にもかかわらず、原則と例外が次第に入れ代わってしまう、そんな精神医療界の現実です。

認知症の分野に、いま、精神科病院が積極的に参入しようとしています。というより、精神病床のなんと16%が、すでに認知症の人々で占められ、年ごとに増えています。
白い壁、白衣、馴染みの日常とかけ離れた殺風景な雰囲気……、認知症の症状を悪化させる写真Dのような、「病院」という環境。そこに、心ならずも連れて行かれる人々のことが、私は、心配でなりません。
写真Eは、厚生労働大臣政務官に就任したの山井和則さんが、スウェーデン留学中に撮影した1980年代の認知症のグループホームです。あたたかな、自宅の雰囲気の中、ゆったりした時間が流れています。
精神病院を認知症の人の終の住処にしてしまう先進国は、日本以外にはないのです。
写真D 写真E

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